「これ、何の花ですか?」
6月の雨が、惰性のように降り続けている夕方の帰り道。
近所の花屋さん「フラワーショップたかやま」で、入り口近くに置いてある薄桃色の花に吸い込まれるようにして、私は店の中に足を踏み入れた。
「ああ、それは、ササユリです」
腰に巻いた黒いエプロンで手を拭きながらそう教えてくれたのは、いかにも「花屋の娘」という感じの、清楚な見た目の女性店員だ。黒髪を後ろで一つに束ねている。歳は、私と同じくらいだろうか。
左手の薬指をチラリと見やったが、そこには何も付いていない。
なぜかそのことにほっと安堵しながら、もう一度店員さんに尋ねた。
「ササユリって、買っていく人多いんですか?」
「うーん、そうですねぇ。ぼちぼち……というところでしょうか。やっぱり、バラとかガーベラみたいな華やかな花の方が、贈り物としてよく売れるので」
商売下手なのだろうか。店員さんは、ササユリの売れ行きがあまりよろしくないということを正直に教えてくれた。
それにしたって、店頭で思い切り「見てくれ」とばかりに飾ってあるのは、彼女のこだわりなのだろうか。
「あ、でも、ササユリはとても希少なお花なんですよ。発芽してから開花するまでに5年以上はかかると言われています。だから、ご自分で栽培するのは難しいかと」
なるほど、そういう戦略か。
おそらく、目の前の店員さんは私に目の前の希少な花を売りつけようと躍起になっているわけでもなさそうなのだが、彼女の話は、私にかの花に手を伸ばさせるには十分なぐらい、戦略的でかつあざとかった。
しかし、それ以上に、私の中の何かが、「ササユリを買おう」と呼びかけているように感じたのは確かだ。
その控えめでいて愛らしいピンク色をした花が、綺麗だと思ったから。
「分かりました。ササユリを一輪、ください」
今まで生きてきて、まともに花なんて買ったことがなかったのに、気づいたら私は店員さんの方を向いて、ササユリを指差していた。
「かしこまりました。ありがとうございます」
客である私に向かってゆるく微笑んだ店員さんと、淡いピンク色をしたササユリの花が、頭の中で完全に重なって溶けた。
「由梨(ゆり)、どこ行っとったん?」
403号室のマンションの扉を開けたとたん、中から出て来た男に、私はぎょっと後ずさりした。
「……ちょっと、寄り道しただけよ」
その男—加藤弘志(かとうひろし)は、今月で交際一年目になる私の恋人だ。
互いに社会人で一人暮らしをしていたのだが、付き合って間もなくして彼が私の一人暮らしの部屋に棲みつくようになった。
30歳で地方公務員。
堅気の仕事で稼ぎもそこそこ。
顔だって、イケメンまではいかないが、私好みのすっきりとした凛々しい顔立ちをしている。
28歳で一般企業に勤める私とは違い、帰りの時間もほとんど毎日決まって早い。いつも彼の方が私より1時間は早く帰宅している。
「寄り道って、どこに?」
弘志は、帰宅したばかりで履いていたパンプスをまだ満足に脱げてすらいない私に、ぐいっと近寄って、私の口から納得のゆく答えが漏れ出るのを待つ。
「えっと、近くの花屋さんに……」
新聞紙に巻かれた一輪のササユリを、彼の前にそっと差し出す。
「あ、そう。それなら先に言ってよ。ご飯作っちゃって、あと5分も遅かったら冷めるとこだったんだ」
「……ごめん」
仕事から帰ってくれば、私のために夕飯まで用意しておいてくれる彼。
側から見れば、私と彼の間にはなんの問題もないように見えるだろう。
むしろ、大学時代の友人や職場恋愛をしている同僚や先輩たちから聞くドロドロとした恋愛奇談に比べたら、幾分か恵まれている——と、思われている。
けれど、彼——弘志には、どうしようもない性質があった。
「由梨は今日、早く帰ってくる約束守んなかったから、今週末はずっと家にいてね」
そう。
彼には、何かにつけて私を自分の元に縛り付けておきたいという欲求がある。
今週の土曜の夜は、大学時代の友人と食事に行く予定があったが、一度彼が「ダメだ」と言い出したら、拒否できない。
「……分かった」
完全に納得したわけでもないのに、彼に逆らうと後始末が面倒だと思い、仕方なく受け入れることにした。
「んじゃ、ご飯食べよ」
ね?
と笑顔で微笑みかけてくれる彼に対して、まるで幽霊にでも出会ってしまったかのような薄ら寒いものを感じてしまったことは、今後誰にも言えまい。
「えーっ、そうなの?」
翌日の金曜の夜、大学時代の友人である前田茜(まえだあかね)に土曜日の約束を反故にしてほしいと電話をした。
「うん……ほんっっとうにごめん。彼が、許してくれなくて」
「彼って、ああ、例の“束縛彼氏”ね」
“束縛彼氏”だなんて、相変わらず人の彼氏をなんだと思っているのかと問いたくなるような揶揄だが、茜の言う通り、確かに彼にそういう癖があることは否めないため、私はスマホを耳に押し当てながら黙り込む。
「にしてもさぁ、あんたも懲りないわよね」
「懲りないって、ひどいなあ」
「だってそうじゃん。なんだかんだでいっつも彼氏くんからNGが出て会えてないよね。あたしら」
「うぅ……それは確かに……」
そう、実は彼女とは、最近何度も会おうという約束をしているにも関わらず、一向に実現していなかった。おそらくそれは、私が彼と付き合いだした一年前から。
「で、今回はなにがあったの? またどうせくだらないことでしょうけど」
茜に聞かれて、私は昨日あったことを彼女に話した。
仕事の帰り道にある花屋さんで花を買って帰ったら、伝えていた帰宅時刻から5分過ぎていたこと。
そのことに、彼が怒ってしまったこと。
「はあっ? 本当にそんなことで? しょーもないことだっていうのは分かってたけど、まさかそこまでとは思ってなかったわ」
びっくりして腰が抜けてしまいそうだと言わんばかりの彼女の仰天っぷりに、私まで「そんなに驚くことなんだ」と唖然とした。
「あたしはいいんだけどさ。あんたは窮屈じゃないの? そんなに縛られて」
茜の呆れ声に責められているようで、頭痛がしそうだ。
「そりゃあ……嫌だけどさ。でも、それ以外に何も不満はないのよ。頼んでもないのに部屋の掃除とかしてくれるし、ご飯だって作ってくれる。こっちは仕事で疲れて帰ってきて、ご飯作る元気ないから、助かってるのよ。すごく」
「ふーん。分からないなぁ。由梨、あんたひょっとしてドM? 今の生活が心地良いの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……。だけど、ほら、私もう28でしょ。茜みたいに女一人でも強く生きられるような稼ぎもないし……そろそろ落ち着きたいじゃない」
茜の言いたいことは自分にもよく分かる。
きっと彼女は、弘志みたいな束縛男となんて、早く別れてしまえばいいじゃないかと言いたいのだ。
けれど、私にだって、私の人生がある。
もうすぐ30を迎える女が、“束縛”以外に何の悪いところもない男と今別れてしまって、この先また別の男と恋愛ができる保証なんて、どこにもないのだ。
「まあ、ねぇ。由梨の焦る気持ちも少しは分かるけど。あたしだったら絶対ソッコー別れる。それで、さっさと次いく!」
見切りをつけたらすぐに次の物件へと走っていく勢いのある彼女は、大手商社でバリバリのキャリアウーマン。独身だけど、私と違って彼女は女一人でも十分に生きていける性質なのだ。
しかしそれを以前冗談で言うと、
「あのね、あたしだって夢くらい見るわよ」
と乙女チックな返事が返ってきた。
とはいえ今の頼もしい彼女を見ていると、男を物ともせずに働いて生きていて、正直羨ましい。
「茜みたいに、強くなれたらなー……」
「またそーゆーこと言う! ほら、シャキッとしなさい。あんな男に人生奪われちゃダメよ」
「……うん」
「とにかく、あまり考え過ぎて追い詰められないこと! そして無理はしないこと! 何かあったら、あたしに相談してよね」
茜は優しい。
普段はサバサバとした言動をしており、雄々しいと思うこともあれば、こうして女友達を心配してくれる優しさを持っている。
彼女と話していると本当に励まされると思いながら、私は「ありがとう。またね」と電話を切った。
つづく
鈴木 萌里
京都大学文学部卒。2019年春から会社員。
本嫌いがなぜか突然本好きに転向。
小学生の頃に小説家を志す。
第4回田辺聖子文学館ジュニア文学選入選。
2019.1〜2019.5まで、京都天狼院書店HPにて、『京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜』を連載。得意ジャンルはヒューマンドラマ。
日々会社帰りの執筆活動を楽しみに生きている。
Twitter @rii_185515
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