晩ご飯を外で済ませて自宅に帰り着いたのは、午後9時23分。
「ただいま」
誰も「おかえり」なんて言わないのだけれど、この習慣は実家で暮らしていた頃から抜けていない。
「先にお風呂入るよ」
私の家をすっかり自分の家と化してしまっている弘志がそう言ってそそくさとお風呂場に向かった。
私は部屋に入り、今日一日中見られなかったスマホを手に取る。
そうしてロックを解除した、その時だった。
「え、何これ……?」
目に飛び込んできたのは、おびただしい数の電話やLINEの通知。
電話、31件。
LINE、10通。
どちらも5歳年下の妹、桃子からだった。
15:21 着信あり
15:26 着信あり
15:34 着信あり
15:45 着信あり
16:01 着信あり
16:13 着信あり
数分刻みでかかっている電話。
それが17:56まで続いている……。
17時台といえば、ちょうど弘志と公園で話をしていた時間帯だ。
私はたくさんの着信の中で、留守電が入っていたのは始めの15:21と、17:56。
私はスマホを恐る恐る耳に当てて、再生ボタンを押した。
15:21
『も、もしもし、お姉ちゃん……? お母さんが……! お母さんがトラックにはねられて、大変なことになったのっ。今すぐ××病院に来て……!!』
「な、なによそれ……?」
スマホの向こうから聞こえてくる妹の声が、不安に震えていて、今にも泣き出しそうだ。
「どういうことよ……っ」
ドクドクと、心臓が脈打つ音が、自分でもはっきりと聞こえて来た。
部屋の外からは、弘志がシャワーを浴びる音が、無責任なほど大きく響いている。
私は怖かった。
もう一つの17:56の留守電を開くのがとても怖い。
でも、聞かなくちゃいけない。
妹が31回も私に電話をして、最後に伝えたかったことを、しっかりと耳に焼き付けなくては。
震える指を必死にコントロールしながら、私は意を決して留守電再生のボタンに触れた。
17:56
『お姉ちゃん、ねえ、どうして来なかったの……? 電話に出てくれなかったの……? お母さんが、死んじゃったよっ』
ガンと、頭をハンマーか何かで殴られたような衝撃が、走った。
「うそでしょ……?」
死んじゃったんだよ。
スマホを耳から話して、再び脳内で再生された妹の嗚咽まじりの言葉に、私は吐きそうになって胸を押さえた。
呆然自失のまま、LINEを開く。
これもまた妹からのメッセージだった。
電話と同じような内容の言葉たちが、次々と目に飛び込んできて、半ばパニック状態に陥る。
最後の言葉は、17:35に送られて来た「もう間に合わないっ」というもの……。
「うぅっ」
何がなんだか分からなくて、その場に崩れ落ちる。ガクンと床で膝を打った時、もうこのまま立てないような気がした。
「由梨、お先に———」
お風呂から出て来た弘志が、私の部屋に躊躇なく足を踏み入れる。
「弘志……あなたは、知ってたのね……?」
「由梨、まさか」
スマホを見たのか、と白々しく驚いてみせる彼が、狂おしいほど憎らしい。
彼は、私とデートしている最中に、私の妹から連絡を受けていた。
きっと妹は、私の携帯に何度連絡を入れても繋がらないから、弘志のスマホに電話をしたのだ。妹を以前彼に会わせたことがあるから、彼女は弘志の電話番号を知っていた。
「知ってたんでしょ」
「……」
「どうして、教えてくれなかったの!? こんな大事なことをどうしてっ」
どれくらい叫んだら、無表情で私の前に突っ立っている彼に届くのだろう。
「どうして、どうして、どうして、どうして……」
彼の胸をダン、ダン、と叩きながら叫ぶ。
「……俺は、由梨とずっと一緒にいたかったから」
彼の口からその言葉を聞いた時、私は自分の中の何かの糸がプツンと切れてしまうのを感じた。
「……出てって」
「え? どうして——」
「いいから、出てってよ!!」
身体中から湧き出る叫びが、痛みが、生まれてこのかた経験したこともないくらいに、爆発した。
「……」
言葉を発することのできない、子供みたいに歪んだ弘志の顔が、私の心をより一層かき乱す。
「早くっっ!」
彼を部屋から押し出し、グイッと腕を引っ張って家の外まで連れ出した。
「由梨、ゴメン」
「何が、『ごめん』よ。お母さんの死に目に遭わせてくれなかったあんたなんて、最低最悪の男よっ……」
それだけ言って、玄関の鍵を閉める。
彼は私のことになるとしぶといから、そのまま立ち去ってくれるかどうか心配だった。
しかし、しばらく玄関を見張っていても、彼が弁解してきたり、ドアを叩いてきたりすることはなかった。
あの束縛男も、私の慟哭っぷりに観念したのだ。
根拠はないけれど、彼がこれ以上私にまとわりついて来ないということを悟った。
「さよなら」
誰にともなく、別れの言葉を口にして私は部屋に戻る。
窓辺に咲いたササユリが、いつの間にか枯れてしまっていた。
「こんにちは」
7月中旬。
梅雨が開けて、数日前の雨が嘘のように晴れていて、蒸し暑い。
土曜日の朝、私は街へ出かける前に、「フラワーショップ高山」に寄り道をした。
母が亡くなってまだ日も浅いけれど、通夜や葬式でバタバタと忙しい日々を送る中で、まともに悲しむ余裕なんて、なくなっていた。
ついこの間までは一日三食のご飯も喉を通らなくて、妹の桃子に「お姉ちゃん大丈夫?」と何度も電話をもらっていたのに。
気がつけば普段通りの生活を取り戻して、私は外へ出ている。
今日は、大学時代の友人、前田茜と一日中遊ぶ約束をしているのだ。
「いらっしゃいませ。あら、この間のお客さま」
ササユリを買ったときと同じ店員さんが、私の顔を見てにっこりと微笑んでくれる。
「今日は、友達に花をあげようと思って来たんです」
そう。
今日は茜の誕生日。彼女に久しぶりに会うということもあって、プレゼントに花を渡そうと思ったのだ。
「それは、素敵ですね。どの花になさいますか?」
ニコニコと可愛らしく微笑んだまま、店員さんが尋ねた。
私は今日、どの花を買うのか決めてある。
「ユリの花をください。ササユリでなく、普通の。いろんな色のユリを花束にして」
【第一話 終】
⇒『アラサーだって、翼』第一話 束縛男と私のユリ(1)
⇒『アラサーだって、翼』第一話 束縛男と私のユリ(2)
⇒『アラサーだって、翼』第一話 束縛男と私のユリ(3)
*Profile
鈴木 萌里
京都大学文学部卒。2019年春から会社員。
本嫌いがなぜか突然本好きに転向。
小学生の頃に小説家を志す。
第4回田辺聖子文学館ジュニア文学選入選。
2019.1〜2019.5まで、京都天狼院書店HPにて、『京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜』を連載。得意ジャンルはヒューマンドラマ。
日々会社帰りの執筆活動を楽しみに生きている。
Twitter @rii_185515
note https://note.mu/rii_185